浮世絵・版画の歴史|一枚絵の技法について解説
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2024.12.23
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浮世絵版画の歴史(一枚絵の技法について)
「浮世絵」と聞いて、私たちは何を思い浮かべるでしょうか。「江戸」、「版画」、「歌麿」、「北斎」、「写楽」、「町民」、「美人画」、「富士」、「広重」、「蔦屋重三郎」、「東海道五十三次」などいろいろ思いつきます。
浮世絵は、風俗画の一つとして発展してきました。色町吉原の様子、美人画、町人のくらし、旅の名所絵など、その時代、その時々に生きる人々の生活や人々の興味のある風景や人物を描いています。また、浮世絵は、現在皆様が頭の中に浮かぶ一枚絵の版画だけではなく、挿絵や肉筆画も含まれています。今回は、木版による一枚絵の浮世絵版画の歴史を紹介していきたいと思います。
浮世絵を最初に広めた絵師は、菱川師宣(生年不明~1694年)といわれています。菱川師宣は、安房国(千葉県南部)出身で若くして江戸に出て絵を学び絵師となり、最初は版本の挿絵を描いていました。その後、版本から絵の部分を独立させて、「一枚絵」という浮世絵版画を誕生させました。
初めの木版による一枚絵は、墨一色で「墨摺絵」とよばれました。1670年ごろの作品に多くあります。
次に、1688年ごろからカラーのものがではじめました。この手法は、「手彩色」といわれ、墨摺絵一枚一枚に筆で色を塗るものです。初期の色彩は「丹」という橙色を使用していました。「丹絵」と呼ばれることもあります。1716年ごろからは、丹に加えて紅花からとれる紅を使用した「紅絵」や墨の部分に光沢をだす技法を使った「漆絵」も現われました。手彩色による作品は、色がついているので以前より美しくなりましたが一枚ずつ塗っていくので作品によってはばらつきがあり、手間がかかるという欠点がありました。
1744年ごろから「紅摺絵」という手法の浮世絵木版画が江戸で売りだされました。色つけも版木で摺れたらという難題を克服した手法となります。「紅摺絵」は使う色ごとに色の版(色版)を彫って、墨摺絵に摺り重ねていく技法です。この手法は、浮世絵界にとっては大きな技術革新となりました。色摺りの量産を容易にし、庶民でも買える安価な作品として重宝されました。ただし、色は2~3色にとどまり、赤系を中心に草色、黄色が加わる程度でした。そのため、色の華やかさなど肉筆画には到底及びませんでした。
「紅摺絵」の時代からもっと多色摺りができないかと思索がされていましたが、その思いが盛り上がったのが、1765年から大流行した絵暦(注)の交換会です。交換会用の絵暦は、暦というより豪華な浮世絵版画で、旗本や裕福な商人らの趣味人が私的に製作しました。絵暦交換会では作品を競い合うことになり、豪華さが重要視されるようになりました。そこで、旗本の大久保甚四郎忠舒(おおくぼじんしろうただのぶ・俳号:巨泉)は、絵師、鈴木春信に依頼し、熟練の彫師、摺師の協力を得て、色数を7~8色に増やした浮世絵版画を誕生させました。大評判となった春信の作品は、版元が目をつけて、「吾妻錦絵」(東錦絵)として商品化して売り出しました。これが、多色摺りの普及のきっかけとなり、多色摺り浮世絵を「錦絵」とよぶようになりました。
その後この「錦絵」が江戸時代後期の町人文化に大きくかかわっていくことになります。浮世絵に関する名高い版元が出現しました。喜多川歌麿を送り出した「耕書堂・蔦屋重三郎」、葛飾北斎の富岳百景を出版した「永寿堂:西村屋与八」などです。版元は、人々の要望を満たすべく、絵師、彫師、摺師の芸術性向上と技術革新に一役買っています。
このようにして浮世絵版画の技法が向上していきました。ちなみに江戸時代後期の版画技術は世界最高峰だったといわれています。
(注)当時の暦(陰暦)では、1か月が30日の「大の月」と29日の「小の日」があり、1年に13か月ある年もあった。絵暦の中にはその年の何月が「大の月」か「小の月」かクイズのように入れ込んであった。
(参考文献)
北斎と広重 富嶽三十六景への挑戦 小川周子 岩崎茜
ぶらり謎解き浮世絵散歩 牧野健太郎
はじめての浮世絵1 深光富士男
はじめての浮世絵2 深光富士男
はじめての浮世絵3 深光富士男
おはなし名画シリーズ葛飾北斎 小澤弘
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